阪神淡路大震災から20年


2015年1月17日で阪神淡路大震災から20年を迎えるにあたって、少しあの時の事を・・・


◆阪神淡路大震災(兵庫県南部地震)とは・・・◆
1995年1月17日午前5時46分52秒、明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源とした、M7.3(*1)の地震である。

最大震度は7(*2)だった。

近畿圏広域が大きな被害を受けた。特に神戸市市街地の被害は甚大であった。
6,434名の方が亡くなられ、43,792名の方が負傷された。
104,906棟の建物が全壊し144,274棟が半壊、390,506棟が一部損壊した。
戦後、発生した地震災害としては2011年3月11日の東日本大震災に次ぐ規模である。

余談だが、当時は「近畿地方には大きな地震は来ない」と言われており、水害に重点を置いた防災計画がたてられており。
兵庫県・大阪府は無警戒状態だったらしい・・・


◆私の記憶◆
2015年現在25歳の私は当時5歳・・・
震災前日の16日までの記憶はまったくもってない・・・
しかし、あの瞬間だけははっきりと今でも覚えている。

当時、吹田市の南端に住んでいた、自慢ではないが大きな庭に日本庭園がある一軒家だった。

記憶が残っているのは震災直前の17日午前5時45分頃からである。

震災直前偶然目を覚ました、なぜかと言うとハッキリとは断定できない。
目を覚ました時、母親がちょうど電気を消した時
後に聞いた話だが、その数十分前に妹(当時2歳)がおねしょをして泣いていたらしい、
その為、着替えさせたり、布団を片付けたりしていたそうだ、それが終わって
電気を消し、保安球(豆電球)にかえたその時に目を覚ました。

目を覚ましてから、少し母親の方を見て(自分が仰向けに寝ると左側)
カーテンの隙間から外を見た、外を見たのは地震の時間が午前5時46分52秒なので、推測では46分45秒ぐらいだと思う。

そして、外が光った
信じてくれる人は少ないんだが、間違いなく光った
当時は5歳、雷が怖くてたまらない年齢、私はとっさに「雷や!」と思い布団にもぐった(この判断は正しかった)
次の瞬間、言葉では書けないものすごい地鳴りがした、ゴォーっと言うのが正しいのか、口でも言い表せない激しい音
雷の音ではない音
そして、ガタガタガタッ!これも言葉で表すのは難しい音と共に、人生で初めて経験する激しい縦揺れ
そして、横揺れ・・・
それはものすごい色々な音がした
物が倒れ、壊れ凄まじい音がした
母親は「あんたら大丈夫かっ!!布団にもぐりっ!」と叫んでいた
私のすぐ右側で大きな箪笥が倒れた、若干なにかが足に当たったのを覚えている。

揺れがおさまってきた時に、布団から顔をだした
保安球は停電でとっくに消えている
母親が「大丈夫か?」と聞いてきたので、「大丈夫」と答えたのを覚えている。
凄まじい恐怖だったが泣いてはいなかった、泣くと言う行為すら忘れていたのかもしれない。

その後、揺れがおさまり、母親は祖母が寝る1階に行った。

大人になり、あの時の揺れを体験出来る施設に行って体験して思ったのが
こんなに短かったのか?もっと長かった気がするんだけど・・・
本当に揺れてる間は長く感じた・・・
それはもう、数分は揺れてる感じがしていた。

何分も放心状態だった・・・その辺の記憶は曖昧になっている。
どのぐらい放心状態だったのだろう?
今はわからない

母親が靴を持ってきた、それを履いてテレビがある1階に避難した。
部屋は先の激しい揺れで、物が散乱していた。

そこから、またしばらく記憶が曖昧になっている。

数回余震があったような。

記憶がハッキリするのは明るくなった頃

テレビでは震災関連のニュースをしている。
破壊された神戸の街が映っていた

大きな揺れを感じた、多分同日7時の最大の余震だろう。

家は全壊こそ免れたものの、いつ倒壊してもおかしくないぐらいに損傷していた。
数日後、ある程度片付いた頃の記憶だが、外も中も壁はいたる所ではがれ、ズレて大きな隙間ができていた
ビー玉が勢いよく転がるぐらいに家が傾き、瓦は数十枚が落ちていた。
そんな、いつ倒壊してもおかしくない家から大慌てで外に出た。

すると、今でもハッキリ覚えている光景・・・
液状化現象が起こっていた
庭のいたる所から泥水が噴出した跡があった。

両隣の家ではこれは起こらなかったらしく、液状化現象の見物人まで来ていた。

家が大きく傾いたのはこのせいだろう。

余談だが、数年前に道路の舗装がやり直されるまで、震災の爪痕が残っていた
側溝と道路に大きな段差が出来ていたのだ
実家の近くには、今でも当時ズレた道路が数か所残っている。

この先の記憶は、部分部分しか残っていない。

例えば、倒壊した阪神高速の映像
激しい猛火に襲われる街の映像

そして、数ヵ月後に解体される実家。

高校時代に阪神淡路大震災関連の書類があったので読み返すと

あの時の家は半壊だったそうだ。

解体直前には「あと数回震度4程度の地震が起これば、確実に全壊する」と
建築関係で働く知り合いに言われている光景を覚えている。

現在、実家はマンションに建て替えられた。

ブルーシートが屋根にかぶった家もなくなった。

震災の爪痕はわずかに道路のズレ程度で残っているだけだ。

そして、震災を知らない世代の子供たちが大勢いる。

神戸から離れた吹田市でも、こんな被害があったことを覚えておいてほしい。

大阪は震度4と公式に発表されているが、気象庁が設置した大阪の地震計は
地盤が固い所にある。
当時建設中の阪神高速11号池田線の地震計は震度7を
北大阪急行が桃山台駅に設置した地震計は震度6を観測している。
その後、震度4を経験したことがあるが、あんな揺れではない。
間違いなく震度6はあったと思う。

以上

◆最後に・・・◆
阪神淡路大震災で亡くなられた方々に、改めましてご冥福をお祈り致します。

今でも、私は地震が来るとあの時の激しい揺れや、音がフラッシュバックしてきて物凄い恐怖に襲われる。

しかし、今働いている会社では震災後生まれの後輩も入ってきている
20年前の1月17日に何があったか、それを忘れてはいけない。
そして、その出来事を語り継がなければならない。
そう思い、ここに自分が経験した阪神淡路大震災を文章として残したいと思う。

駄文で申し訳なく思いますが、ご了承ください。

記2015年1月16日



(*1)発表当初はM7.2だったが、2001年4月23日の気象庁マグニチュード改訂によりM7.3になった。

(*2)当時の震度は1949年改訂の8段階で、それぞれ
震度0(無感)・震度1(微震)・震度2(軽震)・震度3(弱震)・震度4(中震)・震度5(強震)・震度6(烈震)・震度7(激震)
とされており、震度7のみ測定値ではなく、「倒壊家屋が3割以上」の目視による測定だった。
現在は1996年10月1日改訂の10段階震度が使用されており、体感測定も廃止された。
それに伴い、「強震」や「烈震」等の用語も廃止された。
また、震度7も機械測定値に変更された。
阪神淡路大震災は旧震度7が適用され、激震の用語が使用された、最初で最後の震災である。